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表現の原点

母が幼い私に与えてくれたのは、本だけではありませんでした。昔話や童話集、図鑑とともに、オルガンやレコードもまた、私のそばに置かれていました。ことばと音のどちらにも早くから親しんだことが、いまの表現の土台になっているのだと思います。
小学生の頃にはすでに、稚拙ながら文章や物語のようなものを書いていました。そして高校在学中、入院先で出会った旧仮名遣いの『銀河鉄道の夜』が、大きな転機となりました。活版印刷の字のかすれやゆがみ、紙に残る凹み、読みづらさの向こうにある不思議な手触り。
それは、すでに知っていたはずの物語を、初めて読むような昂りの中で開かせてくれる本でした。
そのとき触れたものが、いまも創作の底に残っています。

[Photo : Kaori Komura]


ステートメント

私は、ぴたりとは重ならないものを書き、鳴らしています。
人と人のあいだ、自分と世界のあいだ、さらには自分と自分のあいだにさえ、どうしてもずれてしまう部分があります。
そのずれは、善意や努力や言葉によって、たやすく埋まるものではありません。それでも人は、他者や世界に触れようとする。私の作品や演奏は、大抵そこから始まります。

出会いは救いであると同時に、誤認の入口でもあります。
わかりあいたいという願いは尊いものですが、同時に、相手を見誤る契機にもなりうる。触れようとすることは、ぬくもりだけでなく、加害や取り返しのつかなさも連れてくる。
私はそうした関係の危うさを、安易な融和へ回収せずに書きたいと思っています。
作品の中で繰り返し問うているのは、「幸せとは何か」「救済とは何か」「接続の努力は無駄なのかどうか」ということです。けれど私にとってそれは、明るい答えを差し出すための問いではありません。
壊れたまま得る安堵、忘れることでようやく生き延びること、正しいとは言えない形で成立してしまう救い。そうしたものまで含めて見なければ、本当の意味での幸福や救済には届かないと感じていますし、それをただ否定してしまえば、人がどうにか生き延びるために選んでしまう救いの形まで見落としてしまう気がしています。


幼い頃から、本や音楽のある環境に育ちました。
昔話や童話集、図鑑、オルガン、レコード。ことばも音も、私にとっては早い時期から生活のそばにあるものでした。読むこと、書くこと、聴くこと、鳴らすことは、別々の営みである以前に、世界に触れるための自然な手つきだったのだと思います。
高校在学中、入院先で出会った旧仮名遣いの『銀河鉄道の夜』は、私にとって大きな転機でした。
それは単に好きな一冊だったというだけでなく、文学が「書かれている内容」以上の肌理や息づかいを持ちうることを、身体で知った出来事だったのです。電子書籍は私もよく利用しますが、紙の本を読むとき私はいつも、インキの乗ったわずかな凹凸や本の持つ独特の匂いまでを、無意識に読んでいるのではないかと思います。文字は目だけで読むものではなく、手触りや匂いを含めて身体に残るものなのだと、今も感じています。


その後、薦められた本の中で、また私は衝撃を受けました。
内田百閒の沈黙とずれ、吉田知子の不穏な手触り、石原吉郎の強固な意志。
ボルヘスの冷たい迷宮、ブレヒトの醒めた距離、シオランの苛烈な明晰さ。
それらは私に世界を美しく説明するのではなく、噛み合わなさを噛み合わないまま見つめることを教えました。

それは文体の模倣という意味ではなく、世界が最初から整った意味を差し出してはくれないこと、言葉が説明より先に異物感や軋みを立ち上げうることへの信頼として、私の中に残っています。もちろん、ブレヒトの書いた歌を歌うときも。
私が目指すのもまた、意味をきれいに閉じる文章ではなく、読後にわずかな違和や残響が居残る表現です。
詩だけでなく声や楽器による即興演奏を続けているのも、そのためです。


ことばになり切る前の気配、意味へ回収される前の呼吸や震えに触れたい。
詩と音楽は別々の活動でありながら、私にとってはどちらも世界とのあいだに橋を架けようとする試みです。
私はわかりやすく癒すための表現よりも、見過ごされがちなずれや空白を見つめ直す表現に惹かれます。
埋まりきらないものを抱えながら、それでも人はどこまで他者や世界に触れようとするのか。
その試みを、これからも書き、鳴らし、見つめ続けていきます。

Miki Kamino 2023
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